手をヒラヒラと振りながら近づいてくる男に、新一は思い切り眉を顰めた。
 こっちに来るなと内心で呟くが、それを聞き入れる男ではない。
 くそっ…と舌打ちしながら逃げ出したい衝動に駆られてしまう。
 だが、そんなことができるはずもなく。
 新一の目の前に立ち止まった男は、にっこりと笑みを浮かべた。


(そういえば……コイツ、なんで俺のことが分かったんだ?)


 仮面で顔半分は隠れているはずだから、素性はバレないはずなんだけど。
 心底不思議そうな表情で男を見上げる名探偵。
 仮面越しに見つめてくる蒼の双眸に、男が内心で不埒なことを考えているだなんて思いもよらないだろう。
 にやけそうになる顔にポーカーフェイスを貼り付けて、男は通りかかったボーイに空のグラスを渡した。
 そうして、新たにグラスを受け取る。


「こんなところで逢えるとは思いませんでしたよ、名探偵」
「……俺はお前に会いたくなかったよ。ったく、なんでこんなところに――――」


 男の言葉に、新一が心底嫌そうな顔をする。
 自分よりも背の高い男を睨みながら文句を呟き、しかし言葉は途中で途切れてしまう。
 視界の端に、嫌というほど見覚えのある人物の姿が映ったのだ。
 新一の口元が引き攣る。
 ちょっとマテ、と己に突っ込みを入れてみた。


(中森警部がココにいるってことは、目的は一つしかないということで)


 内心で乾いた笑いを浮かべながら、新一は目の前の男に視線を戻した。
 男は、新一を見つめたまま楽しそうな笑みを浮かべている。
 彼の瞳にも中森の姿が映ったのだろう。


(本気で逃げ出したくなってきたぜ…………)


 思わず呟いてしまったのは、今回の潜入捜査が無事に済むのかと危惧したからだろう。
 新一はがっくりと肩を落とすと、何度目かの溜息を零すのだった。







‡ ‡ ‡ masquerade act.2 ‡ ‡ ‡







「殺人って…本当なの?工藤君」
「ええ。決定的な証拠はまだ掴んでいませんが、これは殺人ですよ。佐藤さん」
「……高木君、目暮警部に連絡してちょうだい」
「わ、分かりました!」


 新一の言葉を聞いた佐藤が、険しい表情で高木に命令する。
 慌てながら携帯を取り出した高木は、邪魔にならないよう玄関の方へと向かった。
 なにかを考え込んでいる佐藤をよそに、新一は顎に手を添えて徐にベランダへと向かう。
 窓を開け、桟の上に立ったままベランダを見つめる。
 そんな新一の行動を不思議に思ったのか、美晴が怪訝そうに声をかけてきた。


「どうか…しましたか?」
「ちょっと…気になりまして」
「…?そうですか?」
「ええ……」


 頷く新一の視線を辿るが、美晴にはなんの変化も見受けられない。
 というか、観葉植物さえ置いていない、簡素なベランダなのだ。
 気になることはないと思うが、彼にはなにかが気になるのだろう。
 新一の背後に立っていた美晴は、邪魔にならないよう彼の隣に移動した。
 それに気づくことなく、新一は思考の淵に沈みこむ。
 視線がベランダを行き来し、何かを探し出そうとしている。


「やっぱり気のせいだったか。――――……ん?」
「工藤さん?」


 溜息とともに呟いた新一の視界にふと映ったもの。
 首を傾げた探偵に、美晴が声をかけた。
 だが、聞こえていないのか新一は一点だけを見つめている。
 どうしたのかと思い彼の顔を覗き込んで……美晴はハッとした。
 年下の探偵が瞳を細め、不敵な笑みを浮かべていたのだ。
 見惚れてしまいそうなその表情に、彼女は頬を赤らめる。


「どうかしたの?」
「えっ!?いえ、なんでも……」
「……?」


 先ほどまで考えこんでいた佐藤が、2人の様子に気づいて声をかけてくる。
 美晴はいきなりのことにびくりと身体を竦ませてしまった。
 だが、なんでもないとばかりに首を振る。
 彼女の仕草に、佐藤は不思議そうに首を傾げた。
 そんな背後でのやり取りは、もちろん新一には聞こえていない。
 ベランダ用のスリッパを履き、雨水用の排水溝の前でしゃがみ込む。
 それに気づいた佐藤が、慌てて新一に声をかけた。


「工藤君、なにか見つけたの?」
「ええ……、決定的な証拠を見つけましたよ。佐藤さん」


 少しだけ汚れた排水溝の蓋を持ち上げ、中に引っかかっていた物をハンカチを使って取り出す。
 落とさないようにそれを持ち上げて、新一は口元をつり上げた。


(犯人を追いつめる証拠は見つかった。後は……横領の証拠だけだな)


 拾った物をハンカチに包んでいると、目暮に連絡を取っていた高木がリビングに戻ってくる。


「佐藤さん、目暮警部が工藤君に詳しい話を聞きたいそうです」
「そう。さっきも聞いたけれど、……時間はあるかしら?」
「そのつもりでしたから。先に美晴さんを家まで送ってもらえますか?」
「もちろんよ」


 新一の言葉に頷き、佐藤は行きましょう、と彼らを促した。
 戸締まりをしてから、全員が田辺の部屋を出る。
 高木と佐藤が先にエレベーターに向かい、新一は美晴が鍵を閉めるのを確認していた。
 かちり…と施錠の音が聞こえ、探偵に促されながら美晴はエレベーターへと向かう。
 1階まで下り、佐藤の車に乗り込んだ所で、携帯の着信音が鳴りはじめた。
 どうやら新一の携帯が鳴っているらしく、ジャケットの内側からそれを取り出し、彼の表情が顰められる。
 佐藤と高木に断りを入れてから通話ボタンを押すと、耳元から怒りを露わにした声が聞こえてきた。


『工藤君…今日が何の日か覚えているのかしら?』
「……ヤベッ(汗)」


 隣家の少女からの電話に、新一の顔が盛大に引き攣った。
 彼の隣に座っていた美晴が驚愕している。
 探偵の顔しか知らない彼女にとっては、当たり前の反応だろう。
 だが、新一と深く関わっている佐藤と高木にとっては日常茶飯事のこと。
 電話の相手が誰なのか理解しているし、また怒られるようなことをしたのかと苦笑を浮かべた。
 必死で言い訳めいた言葉を紡いでいる新一を見て、瞳を瞬かせる美晴。
 そんな彼女に声をかけたのは高木だった。


「いつものことなので、気にしないでくださいね」
「……いつものこと、なんですか?」
「そう、あれが工藤君の素顔よ。レアものだからじっくり堪能したほうがいいわよ?」


 言いながら、佐藤がバックミラー越しに茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべる。
 そんな彼女の笑顔に、美晴がくすくすと笑い声を上げた。
 電話に集中している新一は、まったく気づくことなくなにかを話している。
 これが、彼の名探偵の素顔。
 年相応の表情になんとなく安堵しながら、美晴は佐藤の言葉通り新一の素顔を堪能するのだった。



 † † † † †



 美晴を自宅に送り、佐藤の運転する車は警視庁へと向かった。
 玄関前に到着するや否や、入り口に立つ警官に車を預けて3人は捜査一課へと向かう。
 すれ違うたびに掛けられる声に、営業用の笑顔を浮かべて挨拶をする新一。
 彼の素顔を見ることができるのは両親と幼馴染み、そして隣家の住人の他に一課の刑事たちだけだった。
 なので、営業用の笑顔を向けられて相好を崩している警官たちを見て、佐藤と高木は内心で溜息を吐いた。
 そうして、彼らの夢を壊すまい…と呟く。

 一課の部屋に入ると、目暮がこちらに気がついた。
 彼の机の前には千葉と白鳥が立っている。
 高木から聞いた話を彼らに話していたのだろう。
 佐藤と高木の後に続きながら、新一は彼らに会釈する。


「こんにちは、目暮警部」
「わざわざ来てもらってスマンなぁ…工藤君」
「いえ。一般人が警察に協力するのは当たり前のことですよ」


 にっこり笑う新一に、その場にいた目暮以外の人間が内心でつっこむ。
 ――――工藤君は一般人じゃあないだろう……、と。
 さらにつっこむのは佐藤、高木、千葉の3人。
 ――――事件に遭遇して勝手に事件を解決させる一般人はいないってば。
 そう考えながらも、自分たちが名探偵に頼っているのだから文句は言えまい。
 苦笑を浮かべながら、勝手に話を進めようとしている上司と探偵に気づき、佐藤たちは慌てて真剣な表情を浮かべた。


「で?君と伊月さんが疑問に思ったこととはなんだね?」
「彼女の話によれば、田辺さんは仕事を家に持って帰っていたそうですね」
「確かに、机の上には書類が散らばっていました」


 新一の言葉に応えたのは白鳥だった。
 彼は手帳を捲りながら、その日書き込んだ場所を見つめている。
 白鳥の返事に頷いて、新一は言葉を続けた。


「自殺しようとする人間が、仕事を家に持ち帰るでしょうか?それに、突発的な自殺だったとして、彼には自分の命を絶つような理由がありません」
「だが……、彼には横領の嫌疑がかけられている。それが会社にバレたから自殺したのではないのかね?」
「では、それが誰かに擦り付けられたものだったとしたら……?」


 それを聞いた目暮たちの瞳が大きく見開かれた。
 自殺と決めつけてその可能性を考えていなかった彼らに、新一は内心で溜息を零す。


(天下の警視庁が捜査を過ったなんてマスコミに知られたら、今以上に信用がガタ落ちするぞ……)


 しっかりしてくれよなぁ…とぼやきながら、新一は顔を引き攣らせている面々を見回した。
 ちゃんと聞いてほしいんだけど、と思いながら話を続けていく。


「他に疑問に思ったことは、冷蔵庫に食材がたくさん残っていることと、田辺さんのプライベート用の携帯がなくなっていることです」
「プライベート用の携帯…?そんなものが、あったの?」


 新一の言葉に反応したのは佐藤だった。
 他の4人は反応を返さなかったが、佐藤の問いかけでやっと我に返る。
 スーツの内側から手帳を取り出した高木と千葉が、表情を引き締めて新一を見つめた。


「会社が普及したものでしょう。彼は社長秘書でしたから、仕事用の携帯を持っているのは当たり前ですよ」
「でも、携帯は一つしか見つからなかったよ。それに…伊月さんに確認した時は何も言わなかったけど……」
「彼女はどこかに忘れてきたのだと思っていたそうです。ですが、日が経っても見つからないので、誰かに持ち出されたのではないかと」


 初めて聞いた事実に、高木たちは困惑していた。
 普通は、真っ先に警察へ連絡するものではないのだろうか?
 そう思うが、警察の判断を不服に思っていた人だから、しょうがないのだろうが。
 沈みかけた雰囲気を払拭するため、目暮はコホンと咳をだす。
 そうして、一番気になっていることを新一に問いかけた。


「これが殺人だとすると、犯人が誰なのか分かっているのかね?工藤君」
「もちろんですよ、目暮警部。動かぬ証拠も見つけていますし、後は横領の証拠を見つけるだけです」
「一体誰なんだね、田辺さんを殺害した人物は……」


 目暮の問いかけに、高木・白鳥・千葉がごくりと息を呑む。
 佐藤も、真剣な眼差しで新一を見つめていた。
 彼らを見つめながら、新一はゆっくりと口を開く。
 名探偵の唇から零れた名前に、彼らは瞳を見開いた。
 彼らの周りを、静寂が包み込む。
 それは一瞬のことだったが、彼らは呆然としたまま新一を凝視していた。


「それ…本当なの?工藤君」
「間違いありません」
「横領の証拠なんて…掴めるんでしょうか……」
「探すしかないだろう……」


 信じられないとばかりに問いかける佐藤に、新一は頷きながら答えた。
 高木が、震える声で小さく呟く。
 部下の言葉に苦渋の表情を浮かべながら、目暮は溜息を零した。
 犯人が厄介な相手だと知った彼らは、どうしたものかと考え込む。
 と、なにかを思い出したのか、白鳥が手帳を捲りはじめた。
 そうして、あ!と大きな声を上げる。
 驚いた目暮たちが白鳥へと視線を向け、白鳥は妙案だとばかりに口を開いた。


「潜入捜査ですよ、目暮警部!」








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