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何度、この窓の外を想像し、出て見たいと思ったことか、今ではもうわからない。 長い間、一人きりの時間。時々、訪れる知人以外は、私のことに見向きもしない。 むしろ、嫌っている節がある。 どうやら、私は王の浮気相手の子どもであり、その浮気相手が特殊な血筋であったことが、今の現状の原因のようだが、はっきりとその血筋の意味を知らない私には、どうでもいいことだった。 ただ、誰でもいいから、ここから連れ出してほしかった。 かつて一度だけ見た、綺麗な桃色の花をもう一度見る為に。 その日の晩。 城は襲撃され、私も追い詰められ、高い塔の部屋の窓から外へ堕ちた。 はじめての外の世界は、窓から見るより広い空と綺麗な月が輝いていた。 桜咲く夜に逢いましょう 今日も、私は磨く。好きな時に好きなだけ、嫌ならしなくてもいい。 そんな毎日。 かつての私がどんな人間だったのか、まったくわからない。ただ、体中が痛くて、ここがどこかわからなくて困り果てていた私は、ふと狂い咲く桃色の花を見た。 月の光を受けて輝くようなその花がとても綺麗で、何故か悲しかった。 きっと、忘れてしまった記憶の中で、あの花はとても重要な意味があったのだろう。 しばらくそこで花をぼんやりと見ていた私に、彼が声をかけてきた。 暗闇にひっそりとたたずむ彼は、最初は驚いて警戒したものの、怪我を見てすぐに一緒にいたらしい男に手当てを頼んだ。 どうやら医者の知識がある男だったようで、しっかりとした治療用具がないけれど、応急手当を適確にし、あとの治療はもし用事がないのならすぐ近くに帰る場所があるから、そこで治療するというので、よくわからないまま、私は彼等の家である幻神楼へやってきた。 そこで治療され、食事を出され、好きなだけ休んでいけばいいと言われ、少々戸惑いながら、好意に甘えてその日は眠った。 起きて、どうもじっとしていられずに部屋を出てうろうろしていると、昨日あった彼がいて、もう大丈夫なのかと声をかけてきた。私は礼をいい、ここはどこなのかと尋ね、やはり知っている地名ではないことにがっかりした。 「もし、遠いのなら、場所を言ってくれれば送るがどうする?」 「あ、いえ。あの、すいません。どうも、私は記憶がないみたいなんです。」 だから、思い出す切欠があればといろんな地名を聞いたらぴんとくるものがあるかと思ったのだと言うと、帰る場所がわからないのなら、わかるまでいたらいいと彼は言ってくれた。 だが、さすがにそれは迷惑なのではないかと言うと、此処は元々自分ともう一人少女の二人で過ごしていたが、いつの間にか行き場のない人間が増えていっただけの場所なのだと言った。 そして、一番奥の自分の部屋としている謁見の間よりも奥へ入って来なければ後は自由に好きにしたらいいと他の連中にも言っているのだと言った。 「ここには、いろんな奴がいる。だから、いろんな話を聞いてみたらどうだ?」 何か思い出せるものがあるかもしれないだろ。そう言われ、好意に甘え、私はしばらくここに居ることにした。 本当にのんびりした日常が続いた。 途中で、皆が自由に何か仕事を少しずつしているのを知って、私も何か役に立ちたいと思って、謁見の間に続く長い廊下の、細かい装飾の施された柱を丁寧に掃除することにした。 何だか、何も覚えていないのに、自分から何かするということが新鮮に思えたし、中庭から見る広い空を見るとうれしくなる。 それがどうしてなのかわからないが、この日常の積み重ねが楽しくて幸せだった。 しかも、だんだんと慣れてきた頃、彼に綺麗に拭きあげられた柱をすごいなと褒められたことも嬉しかった。 ありがとう。ただその一言が、私を幸せにした。ここにいてもいいのだと、認められたようで嬉しかった。 もしかしたら、以前の私は認められることがなかったのかもしれない。 だって、こんなにも心が弾むこと、なかったような気がするからだ。だから、記憶が戻らなくても私はこれでいいと思った。 そんなある日、この屋敷では見慣れない男が入口にいるのを見かけた。突然、浮かんだ嵐のように吹き荒れる桃色の花弁が浮かぶ。 男はすでにどこかへ立ち去った後で、私もその場から立ち去った後。 この違和感を抱えたまま夜を過ごした。 そして、夢を見た。私は思い出した。 全てを思い出すことはなかったが、桜というキーワードに繋がる、私にとって大事な記憶の欠片。 「彼の事、忘れてはいけなかったのに。」 とにかく、一人きりだったことは思い出した。それがどうしてなのか、結局私が何者なのかもわからないが、その一人きりだった私の世界に入り込んできた光が彼だった。 彼と一度だけ桜を見た。今の私の名前を指すあの花を一緒に見たのだ。 その彼と、いつかもう一度見ようと約束した。 けれど、今私がここにいて記憶もない状態では、その約束が果たされた事はないのだろう。それに、彼が帰ったという事は私を見つけ、忘れていることに気付いて逢わない事を選んだという事だろう。 きっと、彼を心配させて迷惑かけた。逢いたいけど、逢いに行っていいのかもわからない。 それに、彼が今どこに居るのかわからない。 途方に暮れた私は、その日桜を見に、屋敷の主と出逢った桜の元へ向かった。 もしこの桜が約束の桜だったら、彼がいるのではないかと少しだけの期待を持って。 けれど、此処には誰もいなかった。桃色の花弁をつけていない緑の葉が生い茂る桜があるだけだった。 「そう、だね。季節が違う。だから、たとえ約束の花だとしても、逢えない、ね。」 そんなことも気付かないぐらい、動揺していたのかもしれない。 「駄目だな。駄目。思い出したことも中途半端。せっかく主が褒めてくれた仕事も突然休んで。」 確かに決められてもいないし、強制もされていない。だけど、毎日の日課が私の日常になってしまっていた。それに、最近一緒に掃除する相手もいて、楽しく作業が進んで、嬉しかった。 なのに、全部中途半端にしてしまった。もう、帰れないかもしれない。そう、思った。 きっと、主はいたいだけ好きにすればいいと言って、嫌でない限りいればいいと言うだろうけれど。こんな不安定な状況では、私自身が許せない。 「悩むのもいい。だが、あまり悩み過ぎると余計な事しか考えられなくなるぞ。」 悩むのも掃除も、適度に休憩を入れてやれ。そう言って現れた主。 「主…私…。」 「何だ。言いたいことがあるならいくらでも聞くぞ。」 今日は一日暇だからな。そう言う彼に、私は今の気持ちを言った。 中途半端に思い出したこと。今まで記憶がなくても不安なんてなくて、むしろ楽しかったのに、急に不安定になってどうしたらいいのかわからないこと。そして、今日見かけた彼が大事な相手だということ。彼に逢いたいけど、どうしたらいいのかわからないこと。 途切れ途切れでありながらも、私は一つずつ言葉にした。自分の中で整理をつける為でもあった。 「そうか…今日きていた訪問者で該当しそうな男と言えばいるが…今も逢いたいか?逢いたいなら逢う事はできる。その男は、ある場所で幻神楼でいう警備長みたいな仕事をしている奴だ。」 「え…。」 「どうする?」 「あ、えっと…。」 思ったより早く、彼の居場所が判明して私は戸惑った。さっきまでの不安から、一気に戸惑いと恥ずかしさがこみ上げてくる。 「たぶん、あの時期あの場所、そしてあの男との関係を考えて、俺はお前の素姓をある程度推測はできる。それに、俺はどうも特殊だからな。」 そう言って、彼が見せてくれた、白い翼。 「有翼人…?」 「まぁ、総称としてそう地上では呼ぶのかもしれないが、特殊だと言っただろ?だが、それは今はいい。とにかくその特殊であるが故に俺はお前の中に持っている『異質』がわかる。」 その言葉にどきっとした。頭の中で、いくつもの悪口のような言葉が飛んでくる。 「私…私は…。」 「俺も異質。あの屋敷に来る連中の一部は異質だ。そうやって人の社会に馴染めない奴等が来ることも多い。だから、そんなことで悩む必要はない。そんなことで悩むぐらいなら、きっちり冷静に自分で決められるまでいたらいい。」 選んで出て行くのならそれはかまわないし、自由だ。そう言った彼の翼を私はじっと見ていた。 私はまだ、私の中にある異質がどういうものなのかわからない。けれど、今の言葉で私がその異質であるが故に外へ出られないことと一人きりだったことを思い出した。 だから、あんなに広い空の下に出られることが嬉しかった。誰かと関わることが楽しかった。そして、誰かに認められて褒められることがとても嬉しかったのだ。 「お前が望むなら、推測の話しをしてお前の正体を確かめる為に、お前がいたであろう場所へ連れて行ってやるし、その男の元へも連れて行ってやる。どうする?」 少しだけ考え、私は決めた。記憶は完全ではないけれど、私は元の生活に戻るつもりはない。今の生活を選ぶ。その意思だけははっきりと出た。 だから、私は選んだ。彼に逢うのは、私がもっとしっかり『生きていけるようになってから』にしようと。 まだまだ私はこんなに不安定で、きっと逢っても彼を困惑させてしまう。 足りない記憶の中に他の大事な事がまだあるかもしれない。 それに、私はもっと外の世界を知りたい。そのために、この世界を知る為の準備が必要だ。 料理も作れないし、身を守る術もない。道具の使い方もわからない。そんな私が外に出て生きていけるはずがない。 確かに一人で生きていくつもりではないが、最低限人が出来ることをまず覚えようと思った。 きっと、閉じ込められて一人きりだったから、何もしていないし、誰も何も教えてくれなかっただろうから、籠の鳥のままでは外の猛獣に殺されて終わりだ。そうならないための知識を得て、自分に自信を持ってから彼に逢いに行こうと決めた。 「あの、私、これから料理も覚えたい。街にも行ってみたい。食べ物がどうやって作られるのかとか、たくさん、知りたい。」 きっと、拭きあげること以外、何もできないから大変だろうし、迷惑をかけるかもしれない。 「私に教えてくれますか?」 「ああ。だが、俺よりも、料理は奏鈴に、街へならケルテに。それぞれ皆得意とする分野がある。人との交流の仕方を実戦で学びながら彼等から教わる方がいいぞ。」 皆に伝えておくから、頼んでみろ。彼はそう言った。誰かに頼むということも、人と関わる上で必要なことだと。 今まで私は自分でやって、主に褒められてうれしくてそれを続けていただけ。一緒に誰かとそれをしていても、何か近くに必要なモノがないとき、とってと頼むこともない。 彼女は人に甘えることも、頼ることも、わからない。だから、お願いすることから始めようと彼は言った。 「きっと、忙しい時は断るだろう。教える側も、きっちり相手に向き合いたいだろうからな。」 断られても、諦めず次に頼んでみたらいい。それで、手が空いていたら、彼等は快く教えてくれるだろう。その言葉に私はわかったと頷いた。 次の日、さっそく私は昨日のお礼もかねて、休んでいる主の元へお茶を持っていこうと、お茶の入れ方を奏鈴に教わりに行った。いつも気さくに声をかけてくれて、おいしい料理を出してくれる彼女が私は好きだった。けれど、いつもいろんな人に声をかけたり、忙しく皆の料理を次々に作っていく彼女と話をすることは滅多にない。 だから、初めての試みにどきどきしながら、少しだけ断られたらどうしようと不安も持ちながら頼むと、彼女は笑顔で快く引き受けてくれた。 丁寧に一から教えてくれる彼女の言葉をメモしながら、一緒にこの場所にある食器の位置や、コンロや鍋、道具のことも教えてくれた。 食器にもいろいろあるのは知っていたが、そこは私の知らない世界で、様々なものがあって、覚えるのが多くて大変ではあるが、新しいことを覚える楽しさはあった。 なんとかいれたお茶をお盆に乗せ、一緒に頼むよと彼女に頼まれたお茶菓子を持って、ゆっくり零さないように運びながら主の元へ行った。 すぐに中に入れてもらい、一緒に飲んだお茶は少しさめていた。けれど、主はおいしいと言って礼を言ってくれた。 きっと、普段の生活の中では何気ない些細なことなのかもしれないが、何もない私にとっては何よりうれしいことだった。 そして、次はもっと速く、けれど零さないようにお茶を運ぶと決意を新たに、主に今日あったことをたくさん話した。 あっという間に終わった一日。 明日は廊下の装飾を綺麗に拭きあげ、ホーレインさんを訪ねようと決めた。彼は薬学に詳しいから、害のある草や木々を教えてもらい、応急処置の仕方とか聞こうと思う。 そうすれば、少しは身を守れるし、誰かが怪我をしたら手当てができる。 助けたいという気持ちがあっても、手当の仕方がわからなければ、反対に悪化させることにもなるのだと、以前怪我した時に慌てておかしなことをした私に注意されたのだ。 順番に、一つずつ私は知っていく。そしていつか、一人で街に出て買い物して帰れるぐらいになったら、彼の要る場所を聞いてそこへ一人で逢いに行こう。 そして彼に言うのだ。 彼の知っている私とは違うかもしれない。けれど、そんな私でもまだ友人だと言ってくれるのなら、もう一度逢う約束をしましょう、と。 |