六章 幻影天使

 





 暗い、とても暗くて何もなく、寂しいところ。どこまでも暗い『闇』というものが広がり続けるその空間に、ぽつんと一人いるカイン。

「ここ、何処だ…?」

 痛む足に、簡単な処置を施して辺りを見渡す。見事に、真っ暗で何も無い。だが、必要な視界分の光はあるようなところ。

「…何処だ、ここは。屋敷の外じゃなさそーだし。」

 ここまでくると怪しいものだと、まるで他人事のように呟くカインだが、これでも焦っているのだ。

 落ちた事までは覚えている。間違いはない。それをはっきりと覚えている。だが、ここはどうも違う場所に思える。なぜなら、あるはずの裏に闇を造っていた森の木々がないのだ。本当に、何もないのだ。ただ、寒さも温もりもない寂しげな静寂があたりを包み込んでいるだけ。

 カインはまいったなと思いつつ、耳に着けているイヤホンのスイッチを入れてマイクで呼びかけてみるが、キーアからの応答はない。電波は届かないのか、ジーっと、かすかな音がたまに聞こえるだけで、あとは無音だった。

「まいったな…。」

 よく周りの闇の中から感じられる気配から、ここが空間の繋ぎである事はわかる。つまり、何らかの力が働いた結果、今の事態を招いたのだ。

 こういった状況に陥った場合は、ここへ飛ばされた原因を壊すか、原因となる術を施した相手に解かせるという二つぐらいしかない。

「ったく、面倒な時に…。」

 カインは文句を言いながら原因となる物はないか、何者かの気配はないかと探ってみるが、何も見つからない。

 あまり時間が経ちすぎると、場所によっては戻ったときの時間が激しく乱れるので、早々に解決策を考えなければいけない。場所によっては数分でも、また別の場所によっては数日という誤差が出てくるからだ。

 今回は仕事で動いているので、下手な事をするとキーアに無駄な心配をかけてしまうだろう。そしてクロウにもまた、これを届けられなくなってしまうと、懐にしまっておいたあの扇を取り出した。

 彼がどうしても取り戻したかった、カレンの大切な親の形見の扇。そして、今回の事で大きく流れを変える鍵とも言えるそれ。

 ふと、カインはその扇の紐を丁寧に解き、ゆっくりと慎重に広げた。どんな物なのか、気になったからだ。手伝う報酬としてこれぐらいいだろうと、手を動かした。

「こりゃぁ、見事な物だな。」

 美術品を盗む事もあるので、見る目はある方だと思っている。そうでないと、偽物との区別が出来ないし、詐欺に逢う事だってあるからだ。

 なので、今では仕事上で目を鍛え、どれだけの品なのかだいたい予想をつける事が出来るようになった。最低限の食事のために、少し貴族や金持ちの屋敷からくすねた物を利用することもあるからだ。

 決して、必要以上には盗る事はなくても、盗みには違いなく、咎められる行為であるからだ。

 カインは過去を少し振り返って苦笑しながら、立派な扇をしっかりと見ていた。

「これで、間違いないな。」

 扇の隅のほうに小さく記された印。それはあの領主の証であるもの。つまり、領主の家紋の印が押されていたのだ。これはあの家に縁のある者が持つ物だとわかる証である。

 これは計画に上手く使えば、全ての流れを変えることの出来る力となり、町もあの執事もカレンや子供達も変わる事が出来ると、笑みを浮かべる。

 カインは連絡がとれるならすぐに調べる必要がありそうだと、すぐにここから出る為に、この空間を作り出している相手の登場を待った。

 扇を開いたあたりから、背後から何者かの気配が薄っすらと感じていた。カインは振り返る事なく、ただ背後にいる何者かに声をかけた。

「用件があるなら、お聞きしますが?急いでいるので、手短にお願いできますか?」

 カインは背後に立つ相手が誰なのか、わかっていた。

 こんな事が出来るのは、あの時見つけたものでわかっている。だから、危害を加える事はないとわかっていたから、はやく用事を済ませる為に話は何かと問いかける。

「・・・やはり、貴方は全てを理解されたようですね。そもそも、私の残したあの言葉の意味が理解できた貴方なら。・・・カイン。」

 すうっと何もないそこから姿を見せたのは一人の女。すらりと立つ姿からは気品さえ漂わせる。その割には、着ている服は貴族のような装飾や飾りの多いものではなく、白いシンプルなデザインのもの。

 だが、存在感はとても強く、ここに第三者がいたとしても、姿を現した状況を知らなければただの女の人にしか見えない。まぁ、見えたとしても、反対に女の顔を見て驚いて気を失う可能性はあるが。

 そう。彼女の顔が、何者であるかを証明しているようなものだった。だが、その事には触れずにカインは話を進める。本当に、今は時間が惜しかったからだ。

「貴方こそ、俺の事をを含め、全てを見てきた上で、知っているじゃないですか?」

 女に問いかけると、目を伏せてふるふると首を横に振る。そして、それは全て無意味なことだと小さな振るえる声がカインに届く。

知っていても、何も手を出す事も、声で呼びかける事も何もできないから、意味はない事だと答える。こんなことなら、見ていたくはないと、彼女は涙を浮かべてカインに言う。

 生きていれば何かが変わっていたかもしれないと、何度もあの時生きることを諦めた事を後悔したことか。

「・・・貴方は、いったいどうしたいんです?」

「私は・・・。私は、約束を果たしたいの。」

 果たされることのなかった約束を、今も守ろうと留まる女。

 すでに迎えは来ているというのに、それさえも跳ね返して、まだだと追い返して、だけどただ見ているだけしか出来ずに悲しみのまま、ここに留まり続けた女。

彼女こそ、この屋敷の本来の主であり、あの子・・・カレンの本当の母親。

 あの見つけた紙切れに書かれていた事が事実であれば、そして紙切れに書かれた名前から、全てが繋がった。

 簡単に言ってしまえば、乗っ取ろうとしたバドリックが領主をただの病死として処理されるように手配し、妻も死んだと公表してこの塔に閉じ込めた。

 本当は、病死なんかではなく故意にじわじわと命を削らせて、彼が殺したも同然だったのだが、誰も気付くことなく、今のこの国に変わってしまった。

 閉じ込められた彼女は、バドリックの命令で食事や最低限必要なものはあの執事が毎日あの塔へ届けていたらしい。

 だから、バドリックは気付かなかった。全て執事に任せて、外に出さなければ問題ないと思っていたから、家系の血を継ぐ者が生まれたなどは知らない。

執事は忠実にそれを守り、毎日彼女の為に運び、彼が毎日問う答えに答えた。彼の問いには、いつも彼女はまだ生きているか、元気を取り戻したのかという内容だけだったから。

 忠実に、執事は新しい主の言われたとおりにした。聞かれない事は決して口には出さずに。

 その後、メイド頭も話し相手として顔を出すようになった。執事が身体が辛い彼女の着替えは男より女の方が良いという事で、彼女に話をしても良いかと持ち出したのだ。

そのおかげで、彼女とメイド頭は再び顔を合わし、大層喜びあった。そして、次第に元気を取り戻し始めた彼女の突如起こった異変。二人は彼女の妊娠を知った瞬間だった。

 それから月日は流れ、一人の女の子をあの塔で、メイド頭と執事に見守られる中出産した。

 姿を見られる事はなかったので、妊娠していても誰も気付かなかった。だが、子供の泣き声だけはどうにもならなかった。

 バドリックに知られてはいけないと、塔で鳴き声を聞こえた際に聞いてきた彼に、メイド頭が親戚の子供を預かることになり、仕事の間は彼女に頼んでいるのですと答えたのだった。

 子供がいれば置いては外へ行かないだろうと考えたバドリックは、そうかとだけ言い、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 そして、一年が過ぎようとしていた。

 大分言葉を話すようになった子供に、自分が母親だとわかってもらえてうれしいが、バドリックに知られたと気が怖く、仕事をやめることになったメイド頭に頼み、屋敷から連れ出してもらったのだ。

 一つ、必ず迎えにいくからという約束を残して。

 子供はわかっているのかわかっていないのか、ただ笑顔を見せて、最後に名前を呼んでくれた。何度か呼ばれた事があったが、別れる前にもう一度呼んでもらえて、抱きしめた。

 離れがたかったが、これ以上はいけない。子供をメイド頭に託し、彼女は大切にしていた扇を我子の証として与えた。

 メイド頭はいつか必ずお会いしましょうとだけ言い、屋敷を去った。悲しみで涙が溢れて見えないから、思いとどまることなどないように一度も振り向かずに、彼女はどんどん視界から姿を消していった。

 しばらくの間、彼女は毎日悲しみで泣き崩れていたが、いつまでもこの状態ではいけないと、いつか会うために次第に自分を取り戻した。

 だが、彼女の思いを裏切るかのように、執事からとんでもない知らせを聞く事になった。執事だって、信じたくはない事実だった。

 あの、メイド頭が亡くなってしまったのだ。

 すでに四歳になるだろう我子の行方は分からぬままの状況になり、親友、姉妹のような何らかの絆で結ばれたように感じる彼女の死と、大切なたった一人の娘の行方が分からぬ事で嘆き悲しみ、そんな彼女に病が襲い掛かった。

 何度も何度も、会いたい、迎えに行くのと言いながら、とうとう彼女は命を落とした。

 彼女の死を見取った執事はとても悲しんだ。バドリックは死んで清々したという言葉に怒りを覚えたが、感情を押し殺して今も仕えている。

 自分のただ一人の主と、自分によくしてくれた彼女に思いが残るこの場所を残す為。そして、今も探している彼女の一人娘の帰る家のため。

 誰もいない時に、誰かに気付いてもらえたらと、鏡に残した遺言のような言葉。

 気付いてと願いながら、その執事に見られることはなく、時が流れた。正確には、執事は気付かなかったわけではなく、彼女が亡くなったこの部屋へ来れなかったのだ。主の死に続き、彼女の娘の行方不明、そして最後に彼女の死。

 死んだのだと受け容れられなかった彼は、いまだに足を踏み入れることを拒んでいる。

 だが、娘が生きていた時にと、今も探し続けながら、この屋敷を守る為に忠誠も誓わぬ主の元で執事を続けているのだ。

 

 

「だから、私は彼女の約束を、そして我子を迎えに行きたいの。彼にも、もうあの男に付き合わずに自分の幸せを見つけるように、言いたいの。」

 己が弱いばっかりに、彼女を巻き込み、今も執事の彼をこの屋敷に、あの男に縛られている。それは全て、自分のせい。

「こんなことならっ。」

「それ以上言う事は許しませんよ。」

カインの冷たい目が彼女を見る。涙を浮かべていて、いくら身の上が誰もが思う『哀れ』な内容であっても、彼等は皆、彼女の幸せの為に、そしてそれが自分の幸せでもあったからこそ、その為に生き抜いている。

 もし、あの言葉の先に自分がいなければ、もっと早く死んでいればという言葉が続くのなら、許せない。

 あのメイドは偶然という事故で命を落としたのだ。執事だって、いつでもこの屋敷から出られるのだ。

 ただ、二人とも子供を育てる為に外へ出て事故に合い、執事は屋敷を残す為にここに留まっただけ。

 己の意思を持って決めているのだ。彼女のせいではない。

「確かに、貴方は弱いですよ。彼がそこまでしてここに留まる理由があるというのに、それを否定して唯一出来る『視る』という行為から『逃げる』のですから。」

 彼女は静かにそこに立って、カインの言葉を聞いていた。

「彼女に関しても、子供がいたとしてもいなかったとしても、貴女と関わったとしても関わらなかったとしても、人の命には限りがあります。死は平等に訪れます。ただ、時期が貴女を苦しめるだけ。それから逃れたいから言う言葉でしょう。」

 彼女に死が訪れたように、自分にもいつか訪れる。ただ、自分は持って生まれた異端と呼ばれる原因の力のせいで、他よりは長く生きる身体であることは確かだが、死は訪れる。それは変える事の出来ないこと。

「それでも、まだ貴方は言いますか?そんなことよりも、この空間から抜け出して、伝える努力をすべきではないのですか?」

 決して、彼に彼女がわからないことはない。彼女が心を閉ざしたが故に、彼もまた死を受け入れられていないが故に、互いが開いての心の声を聞く事が出来ない状態なのだ。

 反発しあう磁石のように、近くに寄ろうとして空回りして離れてしまうもの。

「貴方は、約束を守りたい。そう言いましたが、その気持ちは、そんなに小さなものなんですか?」

 母親とは、父親よりも弱いが、時に強いものだ。それを知っている。

 彼女に欠けているのは唯一つ。踏み出す勇気がないのだ。ここに閉じこもっていれば、逃げたという自分を隠す事も出来る。

 それに、彼女は決して勇気がないわけではない。だから、今回の状況に陥ったのかもしれない。

 彼女は、誰も憎まず、優しい人だ。あのバドリックのことでさえ、憎むことをしなかった。そうすればきっと楽だっただろうに、そんなことよりも大切な人達の笑顔の方が大切だったから、彼女は彼女らしく生きた。

「貴女しか、この場所から抜け出す鍵を持っていません。もし、本当に願うのなら、俺を本来ある時間の空間へと、外へと出してもらえませんか?」

 彼女の意思で、簡単に外に出られる世界。気になることはあるが、彼女が強く望めばこの空間は消える。

「ありがとう。ありがとう、カイン。」

 流れ落ちた涙が、彼女の足元に溶ける。

 彼女から光が溢れ、足元を中心にしてその空間全体に光が溢れた。

「お願い・・・あなたなら・・・ゴードに・・・。」

「わかっていますよ。これからやることのついでですから。」

 彼女の姿が消えた後、カインは地面に足を着いて立っていた。

「戻ってきたな。」

 静かな夜の森が、だんだんと賑やかになっていく。

 

 

 

 キーアは必死になって、カインの行方を捜していた。キーアにとって、彼は相棒であると同時に、本当の兄弟のような家族なのだ。

「カイン・・・。絶対戻ってきなさいよ。」

 キーアも何かの力が働いた事には気付いた。だから、カインがまだどこかで生きていることはわかっていた。

 だが、気配が一切つかめない中では、不安ばかりが膨れ上がる。しっかりしないと、側にいるクロウも心細そうにしているのに。

 カインに、頼まれているのに。

「あんたまで失ったら、私はどうしたらいいのよ。」

 もう、失いたくはない。あんな思いは二度とごめんだ。

「あの人。大丈夫?」

「大丈夫。大丈夫のはずよ。悪運だけは強い奴なんだから。」

 いつも、駄目だと思うときでも笑みは消えず、運良く生き残ってきた奴だ。側にいた自分がよく知っている。

 だけど、不安にはなる。連絡が途絶え、どこかに自分でさえ悟ることの出来ない場所へと連れて行かれたことはないから。

「今は、逃げるわよ。ほとんどがこの場所に集まっているから、屋敷の方へ戻るわ。」

 探しに来たのはいいが、近くにバドリックや警備の者達がたくさんいる。こちらにも数人向かって来ている。

 トラップはたくさん仕掛けたから、すぐに捕まることはないが、油断が命取りだ。そういう中で生きてきたから、最後まで気を抜かない。抜くわけにはいかない。

「しっかり、走りなさい。」

キーアの言葉に、クロウは頷き、手を引かれるまま必死に走る。足手まといにならないようにと、今出来ることをやる。

 丁度、キーアとクロウがその場から立ち去って数分後に、こちらへ向かっていた警備の者が現れた。

 そして、二人とは反対の方向へと走って行くのだった。

 

 

 どこを探しても、血の後や足跡一つ見つからない。枝が不自然に折れたり葉が散っている木もない。あの場所から落ちたのなら、ありえないこと。

 どこにも、カインが落ちた形跡がないのだ。

「どうします?一度戻りますか?」

「屋敷の方に一度戻って、もう一度周辺を散策だ。」

 あの泥棒はどうも人では持ち得ない力を持っているように感じられた。だから、助かって別の場所に移動したかもしれないと、責任から逃れる為の言い訳をして、態勢を立て直す為に屋敷へと戻る命令を下す。

 すでに、一人の人間を手にかけている。直接手は下してはいないが、自分は原因の一つだ。

 だから、今更ではあるのだが、やはり罪悪感がないわけではない。いくらほしくて手に入れたものであっても、あの男が死んだ日には必ず夢に見る。

「邪魔などはさせん。」

 一人も二人も変わらないが、寝られない、あんな夢を見る日が増えるのは困る。

 そこが、どこまでも自分中心の考えで、カインやキーアが嫌う人間の性質の一つ。

 確かに、人は誰しも欲を持ち、自分を中心とする考えを持つが、行き過ぎた者は醜いだけ。

 だが、行き過ぎた者は気付くことはない。流れを変えられるまでは、絶対に変わらない。自分自身では気付けないからこそ、行き過ぎてしまうのだから。

 屋敷に戻ってきたバドリック達。そして、キーアとクロウ。

 両者が共に次はどう動くかと思案している時だった。

 

『 我を見守り、力を貸すものよ。目覚め、姿を見せよ 』

 

 その言葉が頭に響いた瞬間、キーアはすぐに察知した気配の先を見る。その先には、違えることのない、カインの姿があった。

 クロウは何があったのかわからないが、キーアが見る方を見て、カインの姿を見つけて無事を喜んだ。

 そして、流れ出す、夜の闇に響き渡る透き通るような笛の音。

 バドリックを含めた多くの者達がその笛の音を聞き、動きを止める。

 聖なる天界の音楽が、その場に流れる。

 だが、突如その音は激しさを増し、先ほどまでの透き通るような響きではなく、激しく響き頭に直接何かが当たるような衝撃を与える音に変わった。

 全ての者達が、笛の音が聞こえる屋敷の上を見た。

 そこには、月を背にしてすらりと立つ、カインの姿があった。

 バドリックもあの髪と笛に相手が誰か気付いたようだ。

「貴様か。貴様だったのかっ!」

 打ち落としてやるとバドリックが再び銃を向けた際、笛の音が再び変化し、そして・・・

 

 

  ファサッ――――――

 

 

 カインの背に大きく広がる翼。白いように見えるが、どこか薄暗い色の翼。

 透けたその翼は、まるで幻のようであった。天からの裁きの使者が降り立ったと、誰もが息を呑んで見ていた。

 雲のように月の光を覆ってしまったソレ。バドリックは己の目を信じられず、その場で固まる。何も動かない。

 再び音が変化し、ゆっくりと笛の音は静まった。

 カインの変化した黄金色の瞳が細めて見下ろす。

「・・・愚かな男だ。」

 すうっと闇にとけるのではないかと思うようにゆったりと動いた姿が、一瞬の内にバドリック達の数メートル前に降り立っていた。

「カイン。」

「キーアか。心配させて悪かったな。」

「まったくだわ。」

 動こうにも、動けないバドリックを再び見て、カインは告げる。

「もう、お前には正当な領主という権利はない。」

「な、なんだとっ!」

 動けなくても声は辛うじて出せるため、最後の悪あがきだと言わんばかりに口で対抗する。

 カインは横目で、丁度執事のあの男、ゴードが来た事を確認し、言葉を述べる。

「今日限り、お前は領主ではない。正当なる血統の領主を継ぐ者がいる。」

「何?!そんなはずはないっ!」

「なら、彼に聞けばいい。本当にいないかどうか。」

 それを聞いてあいつがどうしたと自信満々に後継となる者はいないと言おうとしたが、表情が変わった彼を見て、バドリックもまさかという言葉が洩れる。

「前領主の妻は、一人娘を出産している。その子は今も生きている。そして、この町にいる。」

 お前はすでに舞台での役者を降ろされている。舞台裏へ引っ込む時間だという言葉がバドリックを興奮させる。

「そんなはずはない。そんなことはありえない!噂は何も出てこない。」

「そりゃそうだ。本人は知らないのだから。だが、証拠はあるぜ。」

 先日あんたがとある女から奪った品だと、あの扇を見せた。

 最初はそれに見覚えなど無いわというが、カインは無表情のまま扇を開き、その紋を見せた。

「これでも、見覚えはないと、言いきりますか?」

「・・・まさか、そんな・・・まさか、そんな馬鹿な事があるはずがっ。」

 確かに、見覚えはあった。

 あのみすぼらしい子供から手に入れた扇はとても綺麗な品で気に入っていた。だが、気付かなかった。

「今はもう、気付いているだろう。」

これが、いったい誰の持ち物であったか。

 これは、前領主が妻へと最初に送った品。それを、別れの際に娘へと渡したのだ。

「お前は終わりだ。すでに、隣国から手が回る。」

 隣国に関する事は、キーアに任せてあるから、時間通りなら、明日の朝には結果が出るだろう。

 隣国は、妻の母国。彼女はこの国の領主に恋をし、とついで来たのだ。

 事実を知れば、孫に逢うため、娘を苦しめたこの男に制裁を与えてくれることだろう。

 すでに、カインの背に見えた幻覚のような翼は消えていた。

 その代わりなのか、カインの背後には女の姿が見えた。それははっきりと見えた。

 その姿を見て、バドリックは目を見開く。そして、一歩、また一歩と足を遠のける。

 ゴードは夢でも見ているのかと、辛そうな顔ばかりを最後に見ていたので、ここまで穏やかな顔をしている彼女を見て涙が込み上げてくる。

 その彼女の隣には、もう一人、誰かの姿があった。それは、彼女が愛した夫。

「レンナ様・・・、ディラングス様・・・。ああ、お二人は再び会う事が出来たのですね。」

言葉を言い終わる前にその場に膝を着き、泣き崩れる。良かった、良かったと。

 彼女の一人娘の無事も知れて、今日は良い日だと、涙を零す。

 そんなゴードの姿を見て、苦笑しているのがわかる。あの二人は知っている。彼がとても涙脆い事を。

『・・・いつでも貴女の側にいるわ。マリアも今、一緒にいるのよ。』

そんな言葉をゴードに残し、また、会いましょうねと手を振って、最後に見せた笑顔が涙で歪んで悔しいが、ゴードもしっかり笑顔を見せて薄っすらと消えていく二人を見送った。

 目的を果たせた彼女はやっと、二人が先に待っていた向こうへ行けただろう。

 あとは任せておけと、心での言葉で彼女に伝え、バドリックに最後の言葉を告げる。

「俺の笛は特殊なものでね。特定の相手に呪術をかけることが出来るんだ。」

 演奏は楽しかったかいと言われて、ドスッとその場にしりもちをつく。

 あの男によって、何か得体の知れない何かをされたのだという恐怖が、バドリックの中で占めていた。

 何かわからぬ恐怖から、手はがたがたと震える。

 だが、誰もバドリックに声を掛けることも、手を貸そうともしなかった。

 本当は、誰も彼の命令は聞きたくなかったのだ。

 これで、彼から解放される。そのことで自然と笑みが零れるものが多かった。